国民全員を死に晒す権力は、国民に生存し続けることを保証する権力の裏側に他ならない。
--『知への意志』より。
ミシェル・フーコーさんはフランスの哲学者さんです。
近現代から現代にいたるなかで哲学は次第に昔の人がどういう考えを持っていたのか、そして現在はそれがどうなっているのか。
ということに主眼が置かれていきます。
歴史が積み重なっていく以上当然といえば当然ですね。
フーコーさんはそのなかでも「生権力」という考えを提唱した人です。
古い時代の王様は「従わない者はすべて殺す」と、その権力の絶対性を保持しようとしました。
フーコーさんはフランス革命前とそれ以降で区切って書いていますが、フランス革命以前はすぐに殺したがるというか、わかりやすい権力の使い方がされていたということです。
近代以降の権力は「近所にヤバいやつがいるよ」と、周囲に対して相互に監視させることで全体的に従属させようとしました。
この後者が「生権力」(生きさせる権力)の根幹的な考え方です。
よくいえば、社会の構成員に死を与えるよりも、生に積極的に介入していくことで、管理・運営しようとする権力のあり方が生権力の根幹にあるものです。
日本も戦時中から国民に相互監視させていましたが、いまはすでになくなっているかというとそんなことはありません。
現代はこれらを教育というかたちで実践しています。
フーコーさんは生権力の実践のために必要な要素を「従順な身体」と表現していますが、これは端的に調教しやすい環境づくりのことです。
「従順な身体」は主に3つの規制によって形成されていきます。
空間…学校の校舎、兵舎、工場などの閉鎖的な空間を設置して、この空間をそれぞれの活動や集団ごとに区切る
時間…起床から就寝までの時間を細かく振り分ける
身体…道具や機械と一体化した身体をつくりあげる
こうして文字にするとけっこう普通の教育ですが、こうして規制によって従順な身体を育んでいくということですね。
大事な点は「規制権力→生権力」と移行したわけでなく、二つの主要な権力形態は重なりながら作用していることです。
学校や兵舎、工場や病院まで、近代社会に適合する人間を作り上げるための権力だったと考えるとそれはそれでわからなくもないというかなんというか。
ではまた。