--あるグループの人々が、それぞれ1つ「カブトムシ」の入った箱を持っています。
ただし、そのグループのすべての人が、自分の持っている箱だけしか覗けず、他人の箱の中身を覗き見ることは決してできません。
このような状況において、人々は自分の箱の中身を「カブトムシ」だと思っていますが、他の人が同じものを「カブトムシ」だと言っているのかわかりません。
そのため、このグループにおいてそれぞれの箱の中身が同じ「カブトムシ」かどうかは誰にもわかりません。
お互いの箱の中身は、全く違うものが入っているかもしれませんし、他人の箱は空っぽという可能性さえあります--
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインさんはオーストリア生まれの哲学者です。
もう哲学者って何なんでしょうね。なにしている人たちなのかよくわかりません。
で、冒頭の一文。
これは、そのヴィトゲンシュタインさんの思考実験『箱のなかのカブトムシ』です。
この思考実験はヴィトゲンシュタインさんが、「痛み」の言語化についての考え方を説明する際に使用しました。
『箱の中のカブトムシ』においては、全員が「カブトムシ」の入った箱を持っているため、「カブトムシ」を持っているという共通認識があります。
しかし、箱の中身が確認できない以上、「カブトムシ」というが意味するものは、それぞれ異なっているかもしれない、というのがヴィトゲンシュタインさんの考えです。
あなたが「カブトムシ」だと思っているものは他人の「カブトムシ」とは全く異なるかもしれません。
「自分のカブトムシ」は、自分にしか知り得ないものなのです。
同じように、自分の考えていることや感情を言葉で表しても、それらは本質的には自分にしか知り得ないものです。
あなたが痛みを感じた時、同じような怪我や衝撃であったとしても、他の人にはあなたの痛みを同じようには知覚できません。
痛みの感じ方は人それぞれ異なり、言語化しても正しく伝えることは不可能なのです。
もっと言えば、相手に100%感情を伝えることはできず、自分の内面を言葉で表すことに意味はないのかもしれません。
とはいえ、だとしたら「カブトムシ」じゃないよなぁ、って思いませんか。
そのまま痛みを使えばよかったんでないのかしら。
えー、カブトムシはわかりにくいと思いますけどねぇ・・・。
いや、わかりますよ。
例えば「忙しい」「大変」「ヒマ」どれも個人の感覚なのでこれを共有することは難しいです。
同じ価値観かどうかはわかりあえないしわかちあえない。
でも、それは「カブトムシ」ではなくないですか?
あ、でもカブトムシの件も含めて「言語化した物事は正しく伝わらない」ってことを伝えようとしているなら、ヴィトゲンシュタインさん、天才的かもしれませんね。
ではまた。