代表 小谷野幹雄のブログ

2023年08月24日ジョン万次郎 ~高知県足摺岬~

小谷野です。

40年ぶりに足摺岬を訪れました。

学生時代に、オートバイにテントを積んで日本一周した時以来でした。

足摺岬は、四国最南端の岬で黒潮本流が直接ぶつかる全国唯一の場所です。

 

ところで、足摺岬の近く、土佐清水市は、ジョン万次郎の生まれ故郷です。

近代日本の夜明けに多大な貢献をした万次郎ですが、歴史ではさほど大きく取り上げられません。

土佐清水市の地元では、ジョン万次郎の物語をNHKの大河ドラマ化させる運動がありますが、納得できます。

 

 

1.1841年遭難漂流から無人島漂着

シケにより漂流してすぐに米国船に助けられたのではなく、漂着した無人島にて海藻と海鳥で143日生き延びた後に、米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられました。

 

 

1.ハワイで仲間との別れ

鎖国中の日本に戻ることができなかった万次郎一行は、ハワイに寄港しました。

ここで万次郎は仲間4人を残し、米国本土に行く決意をします。

そして1843年、当時米国最大の捕鯨港マサセチューセッツ州、ニューベッドフォードへ日本人として初めて米国本土の土を踏むことになりました。

 

 

1.人生最大の恩人と幸運な時代背景

万次郎最大の恩人は、ジョン・ハウランド号のウィリアム・ホイットフィールド船長です。

彼は万次郎の命を助けただけでなく、14歳の少年の能力を評価し高度な教育を受けさせる決断をしました。

米国本土では英語、数学、測量、航海術、造船技術の教育を受けました。

日本人留学生第1号と言ってよいでしょう。

幸運なことに、米国では1840年代から黒人奴隷制度の廃止運動が盛り上がり、人種差別を改める風潮が生まれていたので、黄色人種であった万次郎が教育を受けることができたとも言われています。

 

 

1.10年後の帰国

3年間の教育の後、米国で様々な経験をしたあと、日本への帰国は1851年、14歳の少年は24歳の成人になっていました。

 

幕末の志士にも大きな影響を与え、日本開国後の訪米においては、勝海舟、福沢諭吉の乗船する咸臨丸の実質船長として太平洋横断を成功させ、興業、教育、外交など様々な分野での新しい国造りでは、多大な貢献をしました。

小笠原諸島は万次郎がいなかったら日本の領土では無かったと言われます。

 

 

~船酔い漂流中、小谷野でした~

 

(足摺岬の灯台)

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