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2015年06月30日 / 投稿者:Hasegawa 隠居後の5千万歩

先週末、蛍見物に長野県の辰野町を訪れました。
ここには蛍の他にもう一つ目当てがありました。
日本の地理上の中心点、北緯36度と東経138度が0分00秒で交差する「ゼロポイント」の標柱があるとのことで、これも見物したかったのです。
が、あいにくの天候で、蛍は見れず。ゼロポイントも険しい山道の中ということで断念したのでした。。。

小旅行の目的2つは、いずれも達することは叶いませんでしたが、ホテル目前に広がる諏訪湖畔での散歩は気持ちよく、レストラン美術館で心癒されもしました。

ところで、普段あまり緯度や経度など意識せず暮らしていますが、今から200年ほど前、その計測に人生をかけた日本人がいました。ご存知、伊能忠敬です。先日届いた「日経回廊」という冊子に記事が出ていました。

忠敬は1745年上総国小関村で名主(みょうしゅ)の家の次男として生まれました。
18歳で下総国佐原村の豪商、伊能家に婿入りし、家計を盛り立て、50歳で隠居するまでには財産が3万両(約45億円)に及んでいたそうです。
商売の傍ら、佐原村の名主も務めていました。この一帯は、利根川の下流の水田地帯でたびたび洪水に見舞われました。その際、名主には、水田の区画を原状回復するための正確な測量技術が求められました。また、壊れた堤防を素早く修復するため、多くの農民の手を借りて手際よく盛り土作業を繰り返していたそうです。そのうちに、測量の面白さに目覚めたようです。

商家の経営者として、名主として、実績を残した忠敬は、50歳で隠居をします。
そして、江戸に出て天文暦学の勉強を始めたのだそうです。19歳年下の天文学者、高橋至時に弟子入りし、至時のつてで幕府の蝦夷地の地図作りの仕事に携わるようになります。

1800年4月19日、忠敬は内弟子3人と下僕2人を連れ、自宅近くの富岡八幡宮でお参りをし、蝦夷地への測量の旅に出たのでした。ときに数え56歳。以後18年間、10次のうち9度の測量に参加し、計3万5千キロ、約5千万歩を踏破して、1818年に74歳で息を引き取ります。3年後、門弟たちの手で「大日本宴会輿地全図」(全225枚)が完成され、その後、三角測量による近代地図が普及するまで100年超に渡り後世の人の役に立ったのでした。

現役時代はバリバリ働いて力を蓄え、50歳ですぱっと引退し、余生は情熱を傾けられて世のため人のためになることに捧げる生き方。憧れてしまいます。
こんな生き方に近づけるべく、まだまだこれから頑張ろうと思います。マイペースで。

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