「もし過去に戻れるなら、いつに戻りたい?」
というような質問は、わりとよくある場つなぎ的な会話に登場します。
きっと深い意味はないのでそこまで真面目に考えるような必要はありません。誰にだって後悔とかやり直したいなにかがあります。
とはいえ、どうしてタイムマシンはないのでしょうか。
そういえば、2002年に『タイムマシン』という映画が公開されて、当時はアカデミー賞を取ったりしていました。
~簡単なあらすじ~
妻を強盗に殺された学者が、その後4年の歳月をかけてタイムマシンを開発。過去に戻るも妻を救うことができず失意の基に現代に戻ったところ月が割れて地球に落ちてくる。混乱の中で再度タイムマシンに乗り込み60万年後の未来に行ったところ・・・。
みたいな。
冒頭の”過去に戻れるなら~”という割とよくある場つなぎ的な会話のなかで、私たちはいつも”タイムマシンがすでに存在している”という前提で話をしています。
でも、少なくともに現在タイムマシンは存在していないし、タイムマシンが作れそうな気配もありません。時間の壁を超えるのってそんなに簡単なことではないです。
それでも、私たちは平然と時間を移動することを夢想し、そこで起こりえるあれこれについて思いを馳せたりしています。
逆に言えば、私たちはタイムマシンを作ることができないし、タイムマシンがないのなら時間旅行はしない、ということです。
確かにそう、前述の『タイムマシン』において、主人公は学者だったのでタイムマシンを造ることができました。タイムマシンを造るだけの知識の土壌があったということです。
そして、主人公には”強盗に妻を殺された”という失意の過去がありました。むしろこちらのほうが重要なのかもしれませんね。つまり、タイムマシンを造るためにはタイムマシンを造るだけの知識の土壌と、過去に戻りたいと切に願うだけの失意、が必要ということになります。
この2つがないとタイムマシンは造れません。怒りも哀しみも、それを持続させるのは難しい、何かを成すための動力としては持続力が圧倒的に足りない。
仮にタイムマシンを造ったとして、過去に戻ったその人はきっとその時に果たせなかった”なにか”を果たし、果たさなかったとしてもなんらかの形で過去を塗り替えます。
そして、その瞬間にその人はタイムマシンを造るに至った動機を失うので、その先の未来においてタイムマシンは造られません。
つまりそう、タイムマシンを造った人が同じ未来において再びタイムマシンを造ることはない、ということですよね。
そうかそうか。だからタイムマシンがつくられていない、ということになりますよね。
造った誰かは、もう造る必要がありませんからね。
とはいえ、戻ってまでやり直したいような複雑な過去については持ち合わせがないので、ちょっとわかりませんが。
ではまた。