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- 上杉謙信の理念 ~義によるマネジメント~
小谷野です。
上杉謙信(1530-1578 享年48歳)ゆかりの、春日山城を訪れました。
戦いの前には決まって、居城の春日山城内にある毘沙門堂に籠もって戦勝の祈願を行ったと言われます。
毘沙門天は四天王のうち北方を守護する四天王の武神です。
類いまれなる戦いの才能を持ち、生涯負け無しの軍神とも言われた謙信ですが、
天下盗りの野望無き戦国武将とも言われました。
(義を持って不義を誅する)
義を重んじ、自らの領地や権力拡大ではなく、救いを求める者のために兵を興すのが謙信流でした。
下剋上の時代、領地の拡大が最大の武士の感心事であったにも拘わらず、謙信の出兵は他の領主が自国を守るのを助けるのが目的で、勝利しても自分の領地に組み入れることはしませんでした。
(敵に塩を送る)
宿敵、武田信玄が今川・北条に南からの塩の道を止められた時、上杉謙信は、海に面していない甲斐に塩止めすれば困るのは民であると、塩を送りました。
謙信の義侠心(ぎきょうしん:正義のために弱い者を助けようとする心)は、ここでも発揮されました。
武田信玄が死の床にあって、「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」の言ったのは、謙信の義侠心に一目置いていたからと言われています。
(短命が最大の失策)
生涯結婚せず、実子がいなかった謙信は、4人を養子としていました。
48歳で急死した謙信は、4人の養子の跡目を明確にしておらず、死後、越後を2分する跡目争いが生じました。
養子同士の跡目争い「御館の乱」では、上杉景勝と上杉景虎が戦い、景虎(北条氏康の七男)が「鮫が尾城」で自害して終結しました。
勝利した上杉景勝は豊臣政権で五大老に就任、その後徳川家康と敵対し米沢へ減封されています。
また、越後の上杉家は、一族内の下剋上が多く、家臣団のまとまりは良くないと言われます。
義のための戦いは、天才的な強さも有り、尊敬を集めましたが、治世・政治にはもっと、強力なリーダーシップが必要であったという歴史評論家もいます。
~謙信がもっと長く生きたら、越後が京都に近かったら・・、小谷野でした~