「考えてみれば、日本の私たちは、他人には礼儀正しいし、気を遣うのに、その人が自分に面倒をかけてくる存在になると、途端に冷淡になる。私たち日本人が重んじる《和》は、実は相互の深い親切心のもとで成り立っているわけではなく、表面的なのかもしれない。人でなしとは思われない程度の親切と、身内以外の人に迷惑をかけるくらいなら切腹するぐらいの遠慮をもってして、かろうじて機能している繊細な絆だ。言わずに察する文化で支え合っている私たちは、そのルールを無視する人間に接すると、著しく憤慨して疎外する。
憤慨は動揺の裏返し、疎外は怯えの裏返しだ。」
綿矢りさ著『かわいそうだね』より。
さて。
”社会的怠業”という言葉がありまして。
~共同で作業をおこなう時、集団の人数が増えるにつれて一人当たりの努力する量は減っていく~というものです。
フリーライダー現象とか、リンゲルマン効果とも呼ばれます。
フランスの農学者、マクシミリアン=リンゲルマンさんは、社会的に”手抜き”というものがどういったものであるかを調べるために綱引き実験を行いました。
彼は集団で綱引きをする場合に、各人がどれだけの力を出しているかを調べました。
その結果、1人で引いたときの力を100%とすると、
・2人の時は93%
・3人の時は85%
・8人の時は49%しか出さない
ということがわかりました。
集団の規模が大きくなると、誰しも「自分ひとりくらいは」と思うようになるというのです。
綱引きという運動の特性を考慮した場合、人数が多くなるほど力をこめるのが難しくなるとは思います。
とはいえ、力の込め方について意識した場合に、運動の特性よりも感覚的に納得のいく部分が多いのも事実です。
のちに、ダーリーさんとラタネさんによる”傍観者効果の実験”で~共同作業に伴う作業のロスではない~ということが立証されています。
この実験では、学生を適当なグループにわけて、それぞれ一人ずつ個室に入り話し合いを行います。そのうちの1人が途中で発作を起こす演技をするのですが、
このとき、ほかの人たちがどのような行動を起こすのか、を観察しました。結論から言えば、集団の人数が増えるほど、発作に対してなんの行動も起こさない人が多いことが確認されました。
リンゲルマン効果や傍観者効果が現れる原因として、以下の3つが考えられています。
1)責任の分散
⇒個人の努力量が明らかになりにくいため良い結果に対する評価が得られない。また悪い結果の責任は分散してしまう。
2)評価懸念(聴衆抑制):
⇒自分が他の人がしない何かをした時、他人からマイナスの評価をもらうのではないか、ということが気になる。
3)多数の無知
⇒自分が努力しないのは評価懸念のためであるが、他の人が努力しないのはその必要がないからだと皆が知っているからだ、と思い込むこと。
傍観者効果もまた、集団が大きくなるほど、また自分よりも有能な人が多いときほど顕著になります。
ところで、紹介した2つの実験は1900年代の初頭から中ほどにかけて実施、発表されたものです。
このときすでに、集団においては、その人数に反比例して個々の努力の量が減っていくことが証明されていました。
しかも、このときの実験人数は多くとも十数人程度のものです。
ちょうどいま、私たちの置かれている環境も、リンゲルマン効果や傍観者効果に照らしてみれば、”自分だけは大丈夫”とか”これくらいならいいか”という考えが起こるのはむしろ当然です。
だからといって、”みんなでもっと意識を高めて頑張ろう”なんてことが言いたいわけではありません。
どうせできっこないから自粛なんてする必要ないよ、というような暴論を振りかざすつもりもありません。
ただ、それが”難しい”ということは100年前から言われていることですよ、ということを伝えたかっただけです。
”何億人という規模でありながらこれだけ頑張れているというのは、素晴らしいことなのではないでしょうか”と言えば聞こえがよさそうですよね。
あまり直接的な発言は勝手に避けたいのでなんだかぼんやりしていますが、少なくとも私は「伝わってほしい」と思っていますよ、と。
ではまた。